元々ピアノ・特にショパンが好きな人間でした。東京音楽大学にたまたま合格し、地元仙台から上京しました。
小学生の頃からなぜだかショパンが好きで、中学生の頃は生徒手帳にショパンの肖像画をプリントしたものを入れるなど、弾くのが好きというよりも完全にヲタクのような感じだったと思います。
父のパソコンを借りてショパンの肖像画やポーランドの風景をプリントアウトするのは茶飯事でした。雑誌や本など、真面目な活字の本など読みもしないくせに『ほしい!』と思い買っていました。
今もあるかはわかりませんが、昔はポーランドの道路状況をライブで見れるサイトがあって(文字はポーランド語なのでさっぱりわからないのですが)、LIVE ボタンを押してみると、現地時間の道路の様子を見ることができて、それがうれしくてしょっちゅうそのページを眺めていました。ただ遠くで時たま車が走るだけです。でも、その一台動いていく様子が、『自分は今のポーランドを見ているのだ』と実感させてくれ、それがとてもうれしかったんです。
ショパンが好きで毎日CDを擦り切れるほど聞き、ショパンと書いている雑誌を見つけたらコレクションにして、部屋中をショパンで埋め尽くしたいと思うほど、ショパンに取りつかれていました。
ショパンの母国のポーランド。行ってみたいなぁとうっすらと思いながら、高校生の時にパソコンで調べていると、夏期講習でポーランドに行けて、しかもショパンの母校で教授のレッスンを受けられるという願ったりかなったりの募集を見て、大学に受かったら絶対行こうと思い、実際に上京後は金を貯めて初のポーランドへ。
空気、景色、匂い。全てに魅了されて、もっと大好きになりました。
こうなると人なので欲が出てしまうので、今度はポーランドへ留学したいと思うようになりました。技術的にうまくないのはわかってはいるのだけれども、ショパンと物理的に近い環境に身を置きたいと思ってしまったのです。
もともと大学在学中は、せっかく大学に入ったものの、授業がない時間は片っ端からバイトを入れていたので、練習も大してできてないし、そもそも優秀どころか劣等生の類でした。うまい生徒さんや将来性が期待される人は、教授から留学の提案を受ける人もいて、ポーランドの講習でもうまい人はやはり教授から声をかけてもらっていましたが、そんな声が自分にかかるわけもなく。でも自分はポーランドで勉強したい。
で、考えた結果、改めて金を貯め直して、今度は単身で直談判しに行きました。
とはいえいきなり行ってもなと思い、大学宛に、合っているかもわからない下手な英語で、夏期講習のレッスンを受けた者なのですが、改めてレッスンしていただけないでしょうかと書いて(書いたつもりで)メールか手紙かで送りました。(どう解釈されたかはわかりません)
相手にされないだろうなと思いながらも、内心では何か返事くれるかなと思いながらしばらく経ったとき、海外から手紙が届き、内容を確認してみると、
『英語ができないので、事務の方に口頭で伝えて英文にしてもらいました。是非来てください。待っています。(その他省略)』と解釈できる手紙を頂き、泣きそうになったのを今でも覚えています。
更にバイトを入れて金を貯めて、航空券を予約して単身で乗り込みました。普段道順なんて覚えもしないくせに、飛行機を降りてからバスで移動し、荷物を受け取りどこ行きのバスに乗るという流れだけは覚えていて、割と迷わずに行くことができました。
この一週間はレッスン室を何時間か貸していただくなど、配慮していただけて数回レッスンをさせていただくことができました。この間に扁桃腺が腫れてきてしまい、熱も上がってフラフラな状態で、せっかくレッスンしてもらいに来たのにと思いながらも、可能な時間は練習して、宿では持参した紙鍵盤で練習するなどでがむしゃらでした。
そしてレッスン最終日。のども熱も結構マックスにやばくて、結構ギリギリの状態だったのですが、必死にレッスンに挑み、ちょうど時間になりそうな時に、教授から『ここで勉強したいのかい?』と聞かれて、はいと伝えると、『是非来なさい』と言って下さり、この時点で私は大学卒業後1年間働きまくって留学費用を貯めて、2009年に留学しようと決めました。夏期講習の際に通訳をしてくださった現地日本人の方が来て下さり通訳をしていただきながら、1年後に来ることを約束し、決死の直談判がいい結果となりました。
働こうと決めてもそう単純ではありません。物価がいくらで年間授業料はいくら。生活費は今はいくらだから1年あたりいくら必要なのかを算出し、そこから1か月に稼ぐべき金額を算出。それを実現できるバイトを探し、片っ端から面接のお願いをする必要がありました。実現できないかもしれないなんて考えません。もう行く気で動き続けようと決めました。
帰りの飛行機では、安心もあって一気に体調が悪くなり、つばも飲み込めないほど腫れ、言葉も出せない状況になり、成田空港についてからそのまま入院することに。疲労とストレスによる免疫低下が原因だったそうです。
そこからはもう大学のことなんかそっちのけで、バイトしまくって、家にも帰らず授業以外は朝から夕方までバイト。夕方から翌朝まで別のバイト。終わったら漫画喫茶で仮眠して、シャワーを浴びて朝のバイトへ という生活を送りました。こんなのでよく大学卒業できたなと思います。
ポーランドの物価がかなり安かったこともありましたし、貯めた貯金と父方の祖父が応援してくださったこともあり、2009年からポーランドへ渡ることができました。
父も母も割と堅実な人で、恐らくやりたいことを伝えれば応援してくれたと思いますが、色々制限つけられるのは嫌だなと思ったのと、自分で稼げば好きなようにできて、そんなことはダメ!なんて言わせないぞという思考でいたので、ある程度準備が進んだ段階で両親に報告する作戦でいきました。
ある程度準備が進んだ段階で、『私ポーランド言ってくるから~』とさらっと言うと、『はい??(ついにおかしくなったか我が子…)』という反応でした。
日本を離れる当日。あとは飛行機に乗るだけという状態で待っていると、なんと点検の問題か天候の問題か、何かの理由で旅立てず。急きょ用意していただいた空港近くのホテルで一晩泊まるという事態になりました。ワクワクしまくっていた気持ちが一気にもどかしい気持ちに。
翌日無事に飛び立てました。
留学期間中もいろいろありました。留学してすぐに父が他界し、2か月ほど帰国。やることも多く、気持ちも落ちてピアノどころではありませんでした。ポーランドへ戻ってからその分を取り戻そうと無理をしたら、今度は腱鞘炎のような状態になりドクターストップ。勉強したいのに勉強ができないというもどかしいことも多く、自分の性格的な部分も理由ですが色々納得できないことがあって、しばらく男女雑魚寝するようなところで寝泊まりし、そのスペースで紙鍵盤を広げて練習してレッスンに向かう時期もありました。ホームレスのような状況です。何やってるんだろうと思うこともありました。
でも、この雑魚寝も意外に悲惨なことだらけではなく、このような場所では海外の旅人などが多く、いろんな国から来た人がいて、それぞれの想いでポーランドへ来たことを知りました。
英語は話せないのですが、単語や話し方でなんとなく『こう言っているのだろうか』と思い込むようにしていて、そうすると、なんとなく話ができている感覚になって、果たして本当に会話が成り立っているのかはわからないのだけれども、絶妙に会話ができてしまっている状態でした。外国の方も察したり『こう言いたいのだろうな』と汲んでくれる人たちでした。
そんな中で、何人かと話をした際に『どうしてここに来たのか』という話になりました。旅行と答える人もいれば、年配のおじいさんは、『がんで余命が幾ばくも無いから、元気なうちに旅をしている』と話していました。日本人留学生同士でつるむのもいいのですが、自分は『旅行者』としてではなく、こうした様々なリアルを身近に感じながら、ポーランドに密接した生活をしたかったのです。
この時はたぶん人生でここまでピアノの勉強したいと思ったことがないくらいの熱量がありました。だからこそやりたいのにできないということは、自分にとってとても大きなストレスでした。けれどもこのようなちょっと異なる角度からの影響や、目的の異なる海外の人とのかかわりは、当時の私にとって重要でした。
たぶんプレイヤーとして腕があり、将来性があれば自然と道は開けたのだと思います。留学してから本気でやるなど、準備が足りなさ過ぎたと思います。ショパンが好きではあるけども、すべてのショパンの曲を弾きこなせたわけでもなく、留学中はこの曲もやりたいしこっちもやりたいと、どんどん思いは募るのに、1曲を弾き込むことはとても難しくて、年間で自分が勉強できる曲は思った以上に少なかったです。
ベタですが協奏曲1番がとても好きでした。今でも気持ちが滅入った時に聞きたくなります。
留学してから初めてリストやロシアものに興味が出ました。スクリャービンのソナタ5番はもっと弾き込んで弾けるようになりたかったなと思いました。ショパンにはない『なんじゃこりゃ』的な感じが逆に好きでした。(弾けませんけども)
職人になってからも、以前からお世話になっていたスタジオへ行って、時たま練習させてもらっていました。このスタジオの雰囲気がとても好きで、スタジオのおじちゃんのことも大好きでした。おじちゃんと過ごしていたインコがいて、初めてあった時はムスッとしてすごくおとなしかったのに、仲良くなったらなついてくれて、生まれて初めて鳥と紐でじゃれあって遊びました。もう1羽のインコはなつっこく、自分の名前を連呼したり、この2羽の対象的な性格が魅力的でした。
職人になってから受けたショパン国際ピアノコンクールinASIAの東京大会で賞をいただけたり、別のコンクールでは審査員からのコメントを頂けるのですが、そこに『ショパンらしい演奏だった』という評価で賞を頂けたことは、自分の中では泣きたいほどうれしいことで、すべてが無駄ではなかったのかもしれないとは思っています。ただのショパン好きがショパンらしい演奏だったという評価をもらうということは、自分にとってとても誇らしいことでした。
ただただ両親には申し訳ない気持ちです。
十分長くなってしまいましたが、ピアノ時代のことなんかは昔のホームページに書き残しています。
開業間もない頃に自作したHP(~2018年頃まで。現在更新していないためボロボロです)
色々なことがあって、結果職人の道へ進みました。ピアノからは離れても、手に職を付けたいとは思っていました。自分のベースはショパンであり、ショパンが生きていたらいい迷惑と言われるかもしれませんが、自分の人生はショパンとは切り離せないものであり、たとえ道が異なってもショパンのことは自分の中に刻み続けたく、ショパンという言葉を含めました。
ただの恥さらしにしかなりませんが、ショパンリペアはこのような流れで生まれました。
昔のホームページでは開業当初、ちょっとだけピアノ教室も同時並行でやってみたこともあり、ピアノの話題もページ上に結構出していたのですが、そのような昔話の内容でお客様に興味を持っていただいたとしても、実際の当時の施工のクオリティが担保できているか微妙だったのと、純粋に腕で勝負すべきと思い、途中からはピアノ時代の話は一切封印して続けてきました。
2025年。開業10年も過ぎ、今度は『意味もなくつけた名前』と言われるのがちょっと悔しくなり、改めてここに記そうと思い、懐かしく感じながら書いてみました。